月別アーカイブ: 12月 2010

私が脳死状態になったら

年の瀬なので、正月に田舎に帰る前に散髪に行った。 私は小さいころから自分の髪を切るのが好きで、小学校のころ失敗して泣きながら床屋に行って直してもらった思い出がある。もう20年は前の話だ。 そんな私も、この数年は時々朝の髪の毛のセットとともに髪を切るのを習慣としていたので、かなり腕前は上がったと思う。 美容師にこのことを話すと、「でもやっぱり後ろは切れないでしょう、時々は美容院来ないとですね」と言われることが多いのだが、今日行った美容院の美容師は反応が他の店と異なった。 「自分でちょくちょく切っているので、しばらく美容院行っていません」というと、美容師は、髪を眺めて「お上手ですね」というのだ。石の上にも3年というが、私の調髪技術もプロが見ても上手いと言われるほどに向上したのかと、失敗して泣きながら床屋に行った小学校時代を思い返し、感慨深くなる。 というくだらない近況報告は終わりにして、本日は30面(社会)から。 臓器移植「望ましい」3割  欧米諸国の半分程度 国機関が調査 日本人は脳死後の臓器移植について望ましいという意見の人が34パーセントで欧米諸国に比べると(60パーセントから80パーセント)かなり低い。とはいっても、日本人の54パーセントは臓器移植一般について「まあよい」と考え、合計約87パーセントは容認派だという。また、反対派は8パーセントで若干欧米諸国に比べて高いようだ。 また日本人は約3割が脳死という状態がどのような状態をいうのかわからないと回答しており、臓器移植に対する国民の関心が若干低いということがわかる。従来、人の死というのは、1 心拍の停止 2 肺臓呼吸の不可逆的停止 3 瞳孔反応消失という三兆候で判断されるものであったのだが、臓器移植法6条は、「回復不可能な脳機能の喪失」という状態を「脳死」として脳死した者の身体も「死体」に含めている。 臓器移植法というのは平成9年に成立した法律であるから、それほど目新しい法律ではないのだが、その施術例がそれほど多くはないため、国民が身近に感じることはないのだろう。しかし、平成21年の改正で臓器移植に関して移植者(ドナー)の意思表示の方法や、臓器摘出に関する要件が変容しており、我々はもう少し臓器移植や移植医療に関して身近な問題として考えても良いのではないかと思う(私も含めてなのだが)。 ところで、私が先日見たアルノー・デプレシャンの「クリスマス・ストーリー」というフランスの映画はまさに移植医療の問題を扱っていた。 平成21年の改正臓器移植法によれば、自ら生前に臓器提供に関する明示の意思表示をしていなくても、遺族による意思表示によっては、脳死後の臓器を第三者に提供されてしまうことがありうる(本人意思不明でも遺族の書面による承諾で摘出が可能となっている)。 ところで、私は先日初めて自分の保険証の中に「意思表示欄保護シール」というものがあるのを発見した。そして保険証の中をよく読むと、臓器提供意思表示欄なんてものがあるではないか。法は、国・公共団体に、臓器提供の意思表示が従前の臓器提供意思表示カード(ドナーカード)だけでなく運転免許証や医療保険被保険者証にも記載できることを周知させる措置などの施策を講じるための努力義務を課している。ドナーカードだけでなく保険証などにこのような臓器提供意思表示欄がつくようになったのは臓器移植法3条の「国及び地方公共団体は、移植医療について国民の理解を深めるために必要な処置を講ずるよう努めなければならない。」という要請に基づくものだ。ドナーカードだけではなく保険証などにもこのような欄ができたのは政府がまさに臓器移植にかんして啓蒙活動を行っているということだろう(ついでに言えばこの記事も移植医療に関して私が行うささやかな啓蒙活動だ)。 私の保険証の臓器提供意思欄には大まかにいうとこんなことが記載されている。 1 脳死後か心臓停止後いずれでも移殖のため臓器を提供します。 2 心臓が停止した時に限り、移殖のために臓器を提供します。(脳死の場合には提供しない) 3 臓器を提供しません。 また、提供したくない臓器がある場合にその臓器にチェックする項目もある。 改正法により、3の明示の臓器移植拒否の意思表示がない限り、遺族の承諾により自分の臓器が提供されることになった。多くの保険証にはこのような意思表示欄が設けられているのだろうが、今日の日経新聞の脳死に関する国民の認識度の低さから推測するには、意思表示欄に何らかのチェックをし、臓器提供に関する意思表示をしている国民はすくないのではないかと思う。   おそらく、臓器移植なんて自分から生前に提供しますといわなければ、されることはないと考えているかたが多いのではないかと思うが(そしてそれが常識的な感覚ではないかとおもうのだが)、この意思表示欄に何のチェックもしなかった場合には自分が脳死となった時に、自分の臓器が第三者に提供されることがあることを私たちは意識する必要がある。 とはいえ、私もまだ臓器移植の提供意思表示欄にはまだ何も記載していないから、これからは保険証が変わるたび毎度記入をしようと思っている。ちなみに保護シールを貼るか否かは各人の自由だが、私はおそらく貼ると思う。 将来、私が脳死状態になり、家族のだれかがそのシールをはがす日がくるかもしれない。その時に備えて意思表示をしておくことは、遺族に深刻な決断をさせることが回避できるのでとても有益だと思う。では、私はシールの下にどんな意思表示をしておこうか。 とりあえず「はずれ」とか書いておこうか、そうすればシールをはがした瞬間少し場が沸くかもしれない。 さて、年内最後の投稿というのにまたもこんな終わり方です。 皆様良いお年をお迎え下さい。 タツゾー

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2010年を振り返る

日経新聞の一番の魅力は文化面とりわけ夕刊文化面だ。 毎週金曜の映画コーナーのコメントや,評価についての星の数には疑問があるが,それは措いてもやはり文化面の充実っぷりは他紙とは比較にならない。 さて年の瀬になり,27日の夕刊文化では今年の映画3本,今年のライブ3本などを各方面の評論家が書いている。 前日の夕刊を28日深夜2時半にしてやっと読むことができた。2010年を振り返るとロメールの訃報に始まり9月にはシャブロルもこの世を去った。 フランスの映画はあまり見ていないが,特に注目したものはない。年末時間があればゴダール・ソシアリスムを見たいところだが,疲れているのでおそらく鑑賞中に寝てしまう可能性大。 もうこんな時間でブログなんて書かずに寝たいところだが,せっかくなので私も2010年を振り返るつもりで良かった映画3本を紹介し,超一言コメントをしてから,寝ることにする。正月に時間を持て余した方はDVDを借りて是非チェックされたし。 1 春との旅  監督 小林政広   仲代達矢と孫娘の妙な珍道中が泣ける。 2 シルビアのいる街で  監督 ホセ・ルイス・ゲリン   息を殺してしまうほど美しい街の描写 3 500日のサマー 監督 マーク・ウェブ   I said “I love The Smiths”. 彼女の魅力は少し風変わり 今年,私はたくさんの映画を見たわけではない。年々見る映画の数が減っている。来年はさらに減るだろう。 来年はガーデンシネマも閉館となる。これからはどこでウディ・アレンの映画をみればよいのか。 タツゾー

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憲法による保障とは

今日はトラックを借りて引っ越しをしていた。トラックを発車させようと,車のバックミラーを確認したところミラーに見覚えのある男が映っていた。 伊藤塾の塾長として有名な伊藤真弁護士だった。 スーツ姿で颯爽と歩く長身の塾長は相変わらずカッコ良かった。 塾長は一時,弁護士登録は抹消していたが,最近は再び弁護士登録しているようだ。 同氏は,「清き一票は実は0.2票」というキャッチフレーズの議員定数配分の選挙訴訟の相次ぐ高等裁判所の違憲判決後の記者会見などで紙面を賑わしている。 私は,ミラーに塾長が映っているのを確認するや窓を開け「伊藤先生,選挙訴訟頑張って下さい」と声をかけたところ,デスクと段ボールを積みこんだトラックの運転席の若者から,いきなり頑張って下さいと言われたことにかなり驚いた様子で,あなたは誰ですか?と,きわめて普通の人の反応だった。 その後少しお話をすると,塾長は最後はナイススマイルで「ありがとう,頑張ります」と言って,颯爽と姿を消した。 さて,今日は日曜なので,8面のレビュー&プレビューから 「中外批評」  「権力は隠す,しかし・・・」 という論説委員の報道の自由と近時話題のネットでの国家機密の暴露問題に関する論評について。 論者は,既存メディアによる国家権力が隠した情報の報道の重要性について「博多駅事件」の判例を引用して, 「憲法がメディアの仕事を保障していることを明らかにしたという点で,大きな意味を持っている。」という。 また,西山記者事件をあげて, 「条件付きで守秘義務の壁に挑んで情報を得ようとする記者の行為は違法ではないと判断したのである」と指摘する。 さらに,NHKの記者の取材源の秘匿に関して,最高裁が「重要な社会的価値を有する」「特段の事情が認められない場合は,取材源の秘密は保護に値する」 と判断した近時の判例を挙げたうえで,既存メディアの社会的役割について説得的に論評している。 国家権力というものがいつの時代も隠蔽体質であることはその通りであり,その隠匿した情報を暴くことについて,メディアが重要な役割を担ってきたこともその通りだと思う。 しかし,私は常々思うのだが,報道にかかわっている方々の報道の自由に関する意見の論調は,決まって自分たちは特権階級なのだという響きに聞こえる。 国家機密を暴く役割を唯一持っているというような,よくある彼らの論調からすると,最近の尖閣諸島の映像の漏えいの問題についても,海外のウィキリークスの問題についても,これまでマスメディアがになってきた国家情報の暴露という役割を内部者が替わることとなった新たな動きは,まさに報道における地殻変動的現象であると思う。 従前,人的,物理的,経済的制約から一部の特権的な人しかできなかった情報発信が,今では誰でも可能となっている。そのことは,だれもが認めるところだろう。 しかし,今日の論説委員の論評によれば,ネットによる情報の発信を情報「流出」とマイナスな評価を持って位置づけ,既存メディアの文法に沿わないと,よくわからない論理を展開する。文法というレトリックを使うのは良いが,文法とは何ぞや,という説明が欠落している。 非マスメディアによるネットによる情報発信を,安直に情報「流出」と評価し,不明確な危険性を訴えるのは,またもマスメディアお決まりの特権階級目線の主張だ,と感じるのは私だけではあるまい。この論説委員のいう「文法」というタームが何を意味するのか良く分からないが,それが単に「長い時間をかけて作られてきた」ということだけが内実だとしたら,この論評にはあまり説得力がない。 さて,この論評でも触れられている報道の自由だが,これは憲法により保障されているという最高裁の判断がある。一方,取材の自由については,「憲法21条の精神に照らし尊重に値する」と判断されているが,これが表現の自由の一つとして憲法上保障が及んでいるのかについてはさまざまな見解がある。 マスメディアの方々からすれば取材の自由も当然憲法上の人権として保障されていると考えているのだろうが,「尊重に値する」という判例の言い回しははたしてどの程度まで,国家権力を拘束するのかが分からないところだ。 今日はとにかく話が長くなってしまったが,無理やりまとめると(読んでいただけばわかりますが,まとまってないです)私が今日思ったことは,人権として保障されているのか,憲法の精神に照らし尊重に値するというのは,実は大違いではないか,ということだ。 例えば,いくら憲法が国民に投票権を与えていたとしても,実際には1票の価値が,地域によっては5倍の差がついてしまっているという現実がある。このことについて,政府は選挙区割りを決定するにあたって,「国民の選挙権は重要です,国民の選挙権について尊重します」といっているのは,裏返せば,一人について一票を人権として保障しているわけではない,ということだろう。 今日は,伊藤弁護士にばったり遭遇したので憲法による保障ということについて考えてみた。 判例によれば,マスメディアは取材の自由を憲法上保障されているわけではないし,取材源の秘匿が憲法上の権利として認められているわけでもない。 それを人権として認めるべきか否かについて,私はそれなりの意見はあるが今日は書かない。 私が言いたかったのは,「なぜマスコミの方の表現の自由に関する声明や論評は,私たちは特権階級なんですという論調なのだろうか」ということだ。 さんざん書いて,こういうくだらない終わりかたなのです。 タツゾー  

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